インバウンド報道の質について言いたいことがある

インバウンドが盛況である旨の報道が増えてきた。

こんなことに外国人は喜ぶのか?
こんな辺鄙なところにも外国人は来ているのか?
外国人の萌えポイントはこんなところなのか?
など、我々日本人が気づかないような意外性豊かな日本の楽しみ方をしてくれていて、そんな報道を見ると多くの気づきが得られる。また日本にはるばる来て笑顔になってくれている顔を見れば画面越しであれどもうれしい気持ちになる。

ただ残念なのは、未だに報道の質が低いことだ。具体的に言うと、報道はインバウンドから得られる「経済効果」だけに閉じていることだ。

・賛否両論がある二重価格についても外国人は容認
・1万円もするラーメンに大喜びの外国人
・祇園祭の特別席は何十万円もするのにあっと言う間に売れた
・・・など、外国人はお金に糸目をつけずに使ってくれるからいいお金儲けの対象になるよ、という風潮の報道があまりにも多いのだ。

ここで問いたいのは、インバウンドは外貨を獲得するだけのものか?ということだ。

外国人は我々日本人が気づかないいいところをたくさん見つけてくれる存在である。
地域の人が「自分の村には何もない」というところを、外国人は「こんな素晴らしい田園風景は見たことない。そこに暮らす人々が先祖代々受け継がれてきた暮らしぶりに触れることができて感動した」などという「地域に誇りをもたらす存在である」ということはあまり報道されていない点に課題があるのだ。

インバウンドの意義に立ち返れば、
その本質は、
・外貨の獲得による地域経済の活性化
・地域プライドの醸成
の2つだ。

地域のプライドの醸成は、インバウンドを活用した地域の伝統の継承とも言い換えることができる。
そこに地域がインバウンドに取り組む価値がある。日本人にとっては「何もない」が外国人にとっては「お宝」。このギャップを地域の伝統継承にも活かし、地域のシビックプライドを醸成し、地域に住み続ける人を増やすことにも役立てるべきで、その方向にメディアは大衆をいざなっていくべきではないか?

リモートワーカーが増え、地域への移住者が増えてきている事実もあるが、地方の若者は依然として東京や大阪など大都市圏を目指す。そして都市のカルチャーに自分を合わせ一生懸命適応している。都市に家族を持ち、あたかも自分が都市で産まれた人間であるかのように振る舞う。田舎より都市の方が豊かな生活ができるという昭和の価値観はまだまだ堅固に生き続けている。田舎で暮らすじいちゃんやばあちゃんが大切にしてきたことはそうしてどんどん忘れ去られる。

年賀状もお中元もお歳暮も仏壇もお墓も畳の部屋も、いずれも都市にはもはやない。

こうして日本の伝統はどんどん消えていく。

しかし、インバウンド客は違った価値観を持っている。

日本の古道を歩きたいと言う。中山道や熊野古道を歩くために来日する。そして何にもかけてハイキングを楽しむ。
地域のじいちゃん、ばあちゃんの暮らしぶりを見て、それを商業化されていないオーセンティックな情景として記憶に刻んでくれる。
決して写真映えではない。その先にある目に見えない価値を求めている。その街のストーリー。その街で活動する人々のストーリー。スナック、駄菓子屋、食堂、農家、川漁師、神楽の舞手、地域で活躍する日本人のストーリーを自分の中に取り込み、それを一生の思い出として刻んで母国に帰っていく。

そうした側面はあまり報道では語られない。

お金儲けの対象としてではなく、また経済活性化の側面だけでもなく、もっと地域の伝統を日本人に代わって継承する存在であることにも目を向けるべきではないか? なぜなら彼らの方が日本の伝統文化に対する好奇心もリスペクトもあるからだ。それがインバウンドツーリズムの醍醐味である。

外国人=お金。
それはそれで旅行消費額という観点で言うならば、一つの重要なKPIであることは間違いないのだが、そこだけに偏重してしまっている点が行政や日本のインバウンドジャーナリズムの課題だ。

お金は定量的な指標だ。しかし、伝統の継承は定性的。またテレビでの絵面も地味になりがちだ。

しかし、インバウンドをどう活用するかの観点を疎かにしてはいけない。インバウンドを活用した地域経済の活性化や地域伝統の継承に対する世論を高めていくことが必要だ。そのために我々個人が、インバウンドに対するリテラシー、報道に対するリテラシーを高めていかなければならない。いつまで「お金の話ばかりしてるんですか?」と国民が思うようにならなければならないということだ。

経済活性と文化の継承。これが両輪で語られるようになれば、日本のインバウンドはもっと付加価値が高くなるだろう。

政府は「高付加価値化」というキーワードをよく使う。大概の場合それは「値段を高く売ること」と解釈され、そのままそれが商品化されていくことになる。そんな商品は大抵がただただ盛りだくさんだ。特別席を設けること、そこにパラソルを立てること。そこに椅子を設置して外国人でも無理なく座れるようにすること。シャンパンを振る舞うこと。ナイフ&フォークを用意すること、意味なく着物を着せることなどだ。そんな「ただただ高い金額で消費されること」がインバウンドのゴールなのか?と考えると、それは末恐ろしくなる。そこまでその対象に対して興味があるのではなく、単に特別扱いをされたことに満足している人を増やして何の意味があるのだろう? そんな一過性のことを大枚はたいてやるべきなのか? そんな本質的ではないことにお金をこれからも投じていくのか?

もっと物事の本質に眼を向けるべきだ。

その土地のファンを作ること。
その伝統文化のファンを作ること。

それがあるべき姿ではないか?

すなわち高付加価値とは高い金額で売れることではなく、どれだけ地域の人とエンゲージメントを作り出すことができたか。どれだけその対象と精神的な結びつきが生まれたか。そういう定性的なものなのではないか? お金は後からついてくるものと考えるべきだ。精神的な結びつきができればそれが対価となって、相応の金額が支払われるというだけのことだ。結果それが高付加価値消費にもなるだろう。高付加価値体験とは決して豪華体験をすることではない。

旅行体験とはそのビフォア・アフターで自分の中にどれだけの変化が起きたか?である。そこに価値がある。

100万円で城泊を成立させるためにあれもこれもくっつけて盛りだくさんに演出することではない。殿様体験やヨーロッパの貴族の体験ができるというような、ただただ演出された体験のどこに我々は喜びを感じたらいいのだろう? ヨーロッパの古城には1人1万円程度で泊まることができ、普段使いさえされている。私は日本の城郭は、じいちゃん、ばあちゃんの演芸のお披露目や、法事、家族のお誕生日会などで使われるような、生活に溶け込んだ存在であってもいいと考えている。市民の思い出になり、街への愛着にもつながるからだ。価値が下がるという不安を訴える人もいるだろう。しかし世の中は「保全」から「利活用」の時代に移っている。国立公園然り。動物園然り。遠くに置いて大事に扱い威厳を保つことよりも、手に触れさせて人の心の中に入り込ませて、その存在が精神的に持続することに本質的な価値があると考えられるようになってきているのだ。安売りせよ、と言っている訳ではない。目に見えない価値を育む文化財の利活用の方法があるはずだ。その利活用の方法が生活に溶け込んだ城郭の姿だ。利用料が100万円になったとたんに、それは市民のものではなくなってしまう。そこに人間ドラマがあり人と人の結びつきや街と顧客を結びつける絆が生まれれば、それは未来に生き続けるから価値がある。しかし、話題作りが先行した価格マーケティングは一過性で終わるものだし、ただただ高い金額を払って表面的に特別に扱われたことを喜ぶ顧客をいくら作ったところでそれは価値がない。その人たちはその街のファンにはなってくれないからだ。

ラグジュアリー顧客はわがままだ。特別扱いをされないと満足しない。エクスクルーシブ感も求められる。それはそれで一つの価値観であろう。それはそれでマーケットの一つの切り取り方としてはアリなんだろう。でもそんなことをして地域活性に結びつくのか? 文化の継承に役立つのか? ラグジュアリー客の旅行代金の大半はホテル代だ。1日何十万も使うお客さんは確かにいるが、外資系の高級ホテルチェーンにだけお金が落ちているという実態がある。ラグジュアリー客の消費の大半は宿泊に費やされており、その支払い先は大手ホテルのチェーン、しかも外資系であるというのがつまるところだ。応対には決して高くない給与で働くスタッフが神経をすり減らしながら客の機嫌を損ねないよう気を配っている。そこに喜びはあるのか? それがラグジュアリー客を狙う目的なのか? 単に行政の報告書に「我々のプランにこんなに支払ってくれたお客さんがいたんです。外貨をたんまり獲得できたんです。それだけの価値を生み出したんです」と威張れることなのか? そんな表面的な消費観光をいつまでこの国は続けるのか?

そんなカッコ悪いことはできるだけ早くやめたい。終わりにしたい。

もっと地方の民宿や農家民泊、旅館に泊まって地域の暮らしに触れてほしい。せめて垣間見てほしい。

ホテルチェーンに泊まるのではなく、パパママ経営の民宿にこそ、日本の本質がある。ローカルの食堂には味がある。地域のスナックには長年苦労をしてきた年老いたママがいる。そしてスナックにはカラオケがあり、言語を超えた人と人の結びつきを作る。ブルーカラーの憩いの場、田舎の乏しいナイトライフの姿がそこにはある。都市では見られない、日本らしさがそこにはある。庶民だ。それが日本という国のリアリティだ。田舎の庶民の暮らしがそこにあり、それに触れることに意味がある。日本という国は都市と田舎を併せてプレゼンすべきだ。都市と田舎の両方を見てこそ、初めて日本という国が見えてくるのだ。

洗練はされていない。英語対応もまだまだこれからだ。

タバコの問題もある。キャッシュオンリー決済の問題だってある。未だにタトゥー禁止の浴場だってある。

それが田舎の実態だ。

でもそれが本当のありのままの田舎の姿だ。

報道がもっとこうした側面にも切り込んでくれたらうれしいと思う。それは地域が抱える課題だっていい。しっかりこうした言論を通じて、ともに世論を高めていきたい。皆でインバウンドをどう利活用していくかを考える世の中になればいい。

訪日旅行者は客であると同時に、地域のストーリーの伝承者でもある。

その際は「金額」だけでなく「精神的な結びつき」も議論のテーブルにあげて欲しい。「経済効果」だけでなく「文化伝承効果」にも眼を向けるべきである。

【Ehime Kurushima-kaikyo-ohashi Bridges, from Mt. Kiro】【Gunma Carp Streamers, Akaya Lake】【Yamaguchi Farmer in Higashi-ushirobata Rice Terrace】
【Hiroshima Streetscape of Yutakamachi-Mitarai】【Niigata Wakabayashi-tei House】©経済産業省、【表示4.0 国際】ライセンス https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/