どんな犠牲を払って、何と闘っているのか? Vol.1

どんな犠牲を払って Part 1
【創業10周年企画 起業編】2014年6月〜2016年12月

 2024年6月2日、立ち上げた法人リベルタ株式会社は10期目を終えました。決算的にはこの10期目は過去最高の売上高を記録するなど、ようやく億単位で売上を数えることができるようになり、来期以降のさらなる飛躍への期待を大いに抱かせる成長となりました。自宅で独り10年前に始めた会社は、社員が増えて正規雇用として13名、業務委託契約で弊社の仕事を生業としてくださっている方は25名を超えるほどになりますので約40名くらいの組織体ということになります。しかし私たちは、IPOを目指すことも、会社を高値で売却することも、闇雲に規模を拡大することも考えておらず、何のしがらみにもとらわれず「自分たちらしくあること」を今も一番大事にしています。なにせリベルタという社名は「自由」という意味で、皆が自由で自分らしくあることを標榜して名付けていますから。
 起業後10年の生存率は経産省の調査によると26%で、国税庁の調査からだと6.3%のようです。それを考えると10年が経過した今も生き残っていることは奇跡と言えるでしょう。経営者に絶えないのは「人とお金の悩み」と言われますが、ご多聞に漏れず、弊社にもその過程においてはたくさんの従業員の出入りがあり、その度に自分の無力さを感じました。また、運転資金のショートも一度や二度ではない数を経験し、稼ぐ力の無さからくる情けなさや、会社が倒産する恐怖を何度も何度も感じました。自分が事業に失敗した哀れな姿も想像しました。「世間はそんな私をどう見るのだろう?」「私は落伍者になるのだろうか?」「きっと、『だから言わんこっちゃない、所詮あんたにゃ無理でしょ。だって経営者が務まるタイプじゃないよ』と言われるんだろうな」「やはり、自分には力がなかったのか? そりゃ、起業初心者だし、そんなに最初からうまく行く訳はないよな」などと、何度も思いました。夜、ハッと目が覚めて眠れなくなることもしょっちゅうありました。「カードの引き落としができなくなったらどうなるんだろう? 借金取立て屋がうちにもやってくるのだろうか? そうしたら家族は無事でいられるのだろうか? 家も車も売りに出さなきゃだな。従業員は私に愛想をつかすのだろうな」など、いろんな恐怖が頭をよぎり、情けない気持ちになりました。
 金策は社長の仕事で、代わりの人にやらせることも、責任を負わせることもできません。にもかかわらず、全財産をこの事業に注ぎ込んでおり、預貯金は0円。資産もなにもない裸一貫になり、資金ショートに陥った私は、運転資金を工面するために従業員に多額のお金を借りたことさえあります。お金の悩み、つまり資金繰りは起業において一番大きな課題なんですよね。本当にこれが一番キツい。
 「力なき正義は無力」。いくら理想を掲げても、先立つお金がなければ、事業は続けられません。つい最近まで、いえ、今もですが、私の頭に浮かぶのはお金のことばかり。マズローの欲求5段階説でいうところの「生理的欲求」と「安全の欲求」から脱せない日々がずっと続きました。ある時、知人から言われたことがあります。「で、社長って儲かるですか?」…。会社を辞めて起業して社長になったほうが儲かるよね?という会話をしたかったのかもしれません。しかし、その問いには自分自身かなり面食らいました。まったく当時の自分には異次元の質問だったのです。正直当時の私はそれどころでははありませんでした。兎にも角にも会社を潰さないこと、従業員に給与を滞りなく支払うこと、取引先への債務を果たすこと、家にお金を入れることで頭がいっぱい。まったく自分のことを考える余裕はありませんでした。とにかく会社を走り続けさせることとで頭はいっぱい。一心不乱になりふり構わずそのことばかりを考えていたので、「社長って儲かるんですか?」という問いは、唐突であり、異次元であったため、「そうか自分はそういう異世界の住人になってしまったのだな」と思ったものです。自由を手に入れた分、その責任はつきまといます。自分ではなく関係者への責任です。お金だけではなく、人としての信用、評判…全てが代償となります。しかし、そんなリスクにこそ起業の醍醐味はあります。お金の心配のない起業など起業ではないと思います。またリスクを取っていない人は信用されないと思います。
 その人はどの程度のリスクを取って、何を成し遂げようとしているのか? どんな代償を払って、何と格闘しているのか? どんな覚悟を持った人なのか? 世間は口には出しませんが、実はそれを静かに見ています。リスクを取って、旗を掲げない限り、応援者も誰も現れないのです。だからこそ、リスクを取った上で、自分は何をやりたい人間なのか旗を揚げて周囲に知ってもらうことは大事です。それがスタートラインです。「この人はしっかりとリスクを取っているんだな」と悟られれば、それが共感となり、応援という形に発展していきます。応援の行き先がないのはもったいないので、やはり「自分は何を成し遂げたい人間なのか」を掘り下げて考えて、形にして、それを周囲に知ってもらうことが大事になってきます。そんな人とお金のステップバイステップの経験が、起業家を人として強くし、商売のセンスを磨き、経営者らしい人格に成長させるのだと思います。
 私の場合、実績がないため銀行も公庫もお金は貸してくれませんでした。20代の若い行員がうちに来て、融資の審査をした挙句に、融資を断られてしまった時は本当に惨めでした。あの惨めさというか、無力感というか、喪失感は今も忘れられません。都合がいい話かもしれませんが、だからと言って人からの出資は仰ぎたくありません。だから新規の仕事を取って自力で稼ぐか、人からお金を借りるかしか、選択肢はありませんでした。だから毎日毎日人と会いました。フルコミッションの営業もしました。人から蔑まれているような気がして悔しかった記憶もあります。でもなりふりは構っていらせません。とにかく生活費を稼がなければならないのです。起業当時の私の所持金は120万程度しかなかく、生活資金は3ヶ月分しかなかったのですから。
 特に資金繰りについては父に感謝しています。2023年の9月に逝ってしまったので、最期に感謝をしっかり伝えることができませんでしたが、彼が長年教員として働いて稼いだお金、母や祖母が残してくれた遺産、それらのお金は会社の運転資金(主に従業員の給与)として瞬く間に溶けて消えていきました。
 そんな苦労があって、ようやく今があります。従業員の踏ん張りにも目を見張るものがありました。他社と比べても、その頑張りや仕事の品質は超一流。皆の努力が認められて、徐々に継続的に仕事が舞い込んでくるようになりました。よく耐え忍んでここまでやったと思います。そのような一連のお金と人のやりくりと、従業員の踏ん張りがあって、ようやく今事業が実ってきたというのがこの起業10年目でした。

10年前の当時の心境は、当時に投稿したFacebookを見ると蘇ってきます。

 2014年の5月末のヤフーの最終出社日に独り寂しく、小滝橋通りのラーメン店に立ち寄って、自宅に帰った日のことを思い返します。そうか私は独りなんだということが身に沁みたのを今も思い出します。なんというか、、、自分は世の中から必要とも不要ともされてないただの人という物体なんだ、という感慨だったと思います。

 さて、長く会社組織に所属してきた自分でしたが、その看板が外れて、真っ裸の澤野啓次郎という人間ひとつになった際に、どれだけ価値があるのか、まったく想像がつきませんでした。私自身が世の中に生存するにあたって社会的な価値はあるのか? 資本主義の市場の中における価値は私にそもそもあるのか、ないのか? まったく真っ白の状態でした。多くの方々に挨拶回りをしましたが「で、何をやるの?」と聞かれ、「田舎のことをテーマに」とは応えていましたが、でもそれは「どう稼ぐのか?」という問いの答にはなっていませんでした。あるのは「勢いだけ」の状態だったわけです。友人と始める予定だったビジネスは会社を退職して早々に頓挫したので、まったくもって稼ぎの当ては無くなっていました。その友人も失いました。
 人からは「それは奥さんが稼いでいるからできることだ」や「成功する訳がない」と言われたこともあります。悔しい言葉ではありますが、事実だろうと思います。それくらい側からみたら無謀だったのだと思いますし、会社を経営する能力がない人間だと思われていたということでしょう。
 最初の半年は無力でした。無力感を味わいました。稼げない自分はみじめでした。みじめな自分を蔑みました。やはりそんなに簡単に成功する訳ないよな。そんなに簡単に仕事なんて取れる訳ないよな。でも止まってる訳にはいきません。私には生活費を家に入れる義務があります。家に入れる資金が滞れば、家内からは絶縁を突きつけられます。焦ります。全てを失った自分を想像すると怖くなります。資金は全てをぶっ込んでいます。会社にも私個人にも貯金なんて1円もありません。だから動き続けるしかありませんでした。1年目の2014年9月に知人と偶然会い、手持ちのお金の話をしました。間もなく資金はショートする。そこで公庫からの借入を勧められました。即行で政策金融公庫に駆け込み、なけなしの創業支援金300万円を借り、当座の資金難を凌ぎました。それでも先は見えませんでした。
 今考えたら、当時の私は、「何ができる人間なのか?」「どんな商売を始めたのか?」「どんなサービスを提供するのか?」など、まったく何もない無の人間でしたので、仕事なんて舞い込んでくる訳がありません。人と会って会話することで、その跳ね返りをもらい自分に何ができるのか?を知ることができたらいいな、あわよくば、なんら仕事にありつけたらいいなという程度だったのだろうと思います。そんな人間に人が大事な仕事なんて人が預けるわけがありません。今考えれば無謀だったと思いますが、当時の私には「初めての起業」な訳で、いわば「起業初心者」。仕方ないと言えばないでしょう。要するに仕事は取れなかったのです。この2014年6月からの数ヶ月は本当にキツかったものです。
 まさに清水の舞台から飛び降りるような心境で、起業という未知の領域に踏み出した訳ですが、「これから自分に何が起きるのか?」「どんな事件がこれから降りかかってくるのだろう?」と自分を他人事のように見てみるのも面白いかな、将来、ある程度成功して著書を書く機会に恵まれたら役に立つだろうなと思い、「起業の系譜」というログ(出来事メモ)を残すことにしました。これは今も続けています。それが10年分溜まっています。内容は、たわいもなく、やれ誰々と商談した。やれ融資が実行された。やれ誰々を採用し、誰々が退職した。借金をした。仕事を受注した…などです。その中には、父が亡くなったことや、最愛の叔父を亡くしたことも含まれています。10年経ってる訳ですから、いろんな出来事があります。
 これらのメモを見直してみると、ターニングポイントは2つあったと思います。1つは2014年中に自分のベーシックインカムが保証されたこと。これは3社の方に私に仕事を任せていただけたということに尽きますが、図らずも、それは「夢を実現しながら稼ぐ」ということに結実しました。糸口をつかめたのは2014年の11月でした。


 そもそも2014年5月末に前職を退職した訳ですが、そのきっかけとなったのは、ふるさとである萩市が、大河ドラマの舞台になることと、世界遺産に登録されるということでした。地元では盆と正月が一緒にきたと盛り上がってきました。それが2015年のことで、ふるさとのことに傍観者としてではなく主体的に関わるのだ、ということを決断をし、その前年の2014年に私は会社組織を離れた訳です。幸いにも先に書いた3社の仕事のうち1つがその大河ドラマ「花燃ゆ」のWEBディレクションの仕事でした。つまり、当初描いた「ふるさとの大きな出来事に自分が主体として関わる」という夢を1つ実現したのです。発注元のNHKが用意していた地元山口県の明治維新にまつわる史跡リストは全て回り、写真の撮影をしました。やりがいがありました。ああ、自分はこうして自分の夢を実現しているんだな、という実感がありました。これが組織に属してキャリアアップを目指す階段上昇的な生き方ではなく、自分の内なる声に耳を傾け夢を実現する生き方へのシフトチェンジが功を奏した結果でした。「夢を実現しながら稼ぐ」という生き方の第一弾が完成した瞬間となったのです。
 2つ目のターニングポイントは、自分が真にやりたいことを知った瞬間でした。それは2016年12月のNHKの番組でした。その当時やっていた仕事に課題感を感じていたからこそ神経が敏感になっていた(人は死ぬ気になった時、本当に困った時にこそ本当の力を発揮する、切羽詰まってこそ第6感が研ぎ澄まされる)のだと思いますが、自分がやるべきことは「これだ!」と思いました。それは外国人が田舎の畦道を歩きながら喜んでいる姿でした。外国人が田舎のじいちゃんやばあちゃんと交流し喜んでいる姿でした。それは私たち日本人からしてみたら至って普通のなんの魅力も特別感もない光景でした。でも、外国人たちはその地元との交流を嬉々として楽しでいるのです。また欧米の旅行者たちは、田舎道を歩くことのそれ自体を楽しんでいました。歩くことがテーマなのです。それは私が知らなかったアクティブな旅行の形態でした。それはウォーキングツアーというものでした。
 これまで悶々と、ふるさとに関わる事業を興したいと思っていた訳ですが、ようやく「田舎のウォーキングツアー」というビジネスモデルを手に入れた瞬間でした。湧いて湧いて、溢れてきて溢れてきて、行き場なく溜まる一方だった地域活性の思いを事業化する枠組みを知ったのです。それがインバウンド旅行業となったのです。自分がやりたいことが明確になったことで、ずいぶんと気が楽になりました。逆にそれが見つかるまではとても苦しかったです。自分の天命を知ると、こうも楽になるものかと思ったものです。あとはやり続けるのみだと思いました。旅行業は手数ばかり多くて粗利率も低く、またフィジカルなビジネスなので、リスクも高くたいへんな事業だと思います。それまでは見向きもしない、むしろ避けたかったビジネスでした。でも、この田舎インバウンド事業は、それを圧してまでチャレンジする価値があると信じることができました。それが今の「ハートランド・ジャパン」です。ハートランドとは「ふるさと」を意味し、ふるさとを世界と分かち合う、ということをテーマとしたアドベンチャースタイルの旅行事業となりました。

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